ゆっきぃ先生と考える「“普通”って何だろうな?」 【子どものすることには“ワケ”がある 第1話】

子どものすることには“ワケ”がある

足立区を拠点とする子どもの理科実験・ワークショップの教室「わんだーラボラトリー」を主催する和田由紀子さん(ゆっきぃ先生)は、足立区の学校支援員として様々な子どもたちを支援しています。

そんな“ゆっきぃ先生”が、個性あふれるユニークな子どもたちの物語を綴るのが、「子どものすることには“ワケ”がある」です。第1話は、ゆっきぃ先生と考える「“普通”って何だろうな?」をお届けします。

「わんだーラボラトリー」主催で、学校支援員の和田由紀子さん(ゆっきぃ先生)
「わんだーラボラトリー」主催で、学校支援員の和田由紀子さん(ゆっきぃ先生)

子どもと同じ方向を見て知る“キミの物語”

はじめまして。「わんだーラボラトリー」主催の和田由紀子です。

私は元小学校教員で、現在は学校支援員をしています。私が携わる足立区の学校支援員は、小学校の担任の先生とは異なります。毎回違う学校に出向いて、通常学級でみんなと一緒に過ごすけれど、離席をしてしまう子だったり、一緒に活動をするのが難しい子だったり、障がいの有無には関わらず発達にデコボコがある様々な子どもたちのサポートをしています。

私は子どもが好きです。子どもと言っても幅広いですが、7歳から12歳くらいのいわゆる小学生が特に好き。彼ら彼女らは、枠組みはしっかりと“子ども”に分類されるにも関わらず、時に大人と同じか、それ以上の思考力を持っていて、それはそれは物事を深く考えています。大人が持つ“常識”というモノサシから見たら、それがヘンテコで、時にはワガママに映る時もあるけれど、彼らにしたら真剣に思考した結果なのです。

しかし、私がそう思えるようになったのは、ずいぶん最近のこと。小学校の教員を経て、我が子を3人育てて、子ども向けの様々なワークショップを開催して、今も支援員として学校を訪れる私は、かれこれ25年ほど子どもと向き合ってきました。子どもはずっと好きだったし、面白いと思ってきたけれど、今のような境地にたどり着いたのは、本当に最近のことなんです。

ゆっきー先生
ゆっきー先生

それまでの私はずっと、子どもと真正面から向き合ってきました。「大変な努力を積み重ねた」と思ってきました。でも、今はちょっと違うかなぁ。今、私は子どもと同じ方向を見て、同じ景色を共有したいと思っています。その方が、子どもだけを見ているよりも、ずっと面白い。ワクワクして、ドキドキして、ヒヤヒヤして、時には涙が溢れる。そんな物語が、いつもその景色の中にはあるのです。

そして、その物語を知ることは、もしかしたら、子どもたちへの共感や理解に繋がるのではないか、と考えるようになりました。貧困・虐待・発達障害・不登校・ヤングケアラーなど、様々な問題や課題に取り囲まれている子どもたちがいて、私たちが住むこの地域は常にそれらと隣合わせです。「どうしてこんな状態に」と思い悩みながら、どんどん悪くなっていく現状に打ちひしがれながら、でも、いつも目の前には子どもたちがいて、子どもたちの物語を知ることで、私は救われてきました。

どんな時も、子どもたちほど希望に溢れた存在はないからです。もしかしたら、他の人もそうかもしれない、とふと考えました。

ゆっきー先生が関わる「あおぞら作文教室」の近くで
ゆっきー先生が関わる「あおぞら作文教室」の近くで

子どもたちの物語は、いつも見せてもらえるわけではなくて、ほんの時々、うまいことタイミングがあった時、チラッとその先端が現れます。それをさり気なく追いかけて見に行きます。私は、子どもたちの物語を見たくて、子どもたちの発達や心理のことを学ぶようになりました。

大人は誰でも子どもだったことがあるのに、大人になると子どもの気持ちが分からなくなってしまうのです。子どもの頃の記憶は、途切れ途切れで、瞬間的で、後から大人になった自分が自分にとって都合の良い物語に仕立て上げているから、アテになりません。今、目の前にいる子どもの物語を観る・聞く・読み解くということに関しては、ストイックに学んでいるつもりです。

子どものすることには常に理由がある。

それが周りの大人にとって、どんなに都合の悪いことであっても。そんな子どもたちの物語を残しておきたいと思って、今回筆を執りました。これは物語ですし、“私にはこう見える”ということであって、本当にそうなのかどうかは誰にも分からないけれども、「あぁそういう見方もできるね」と思ってもらえたら、私はとても嬉しいです。

「“普通”って何だろうな?」

ようたさん(仮名)は、授業中、気が付くと机の下にいる。教室の隅っこで膝を抱えて丸くなっていることもある。

そういう時に話しかけると、顔を覆い、頭を覆い、全身で「拒否」の体勢を取る。3年生だけど、それは低学年の時もあったようなので、クラスのみんなは何も言わない。聞くところによると、「ADHD(注意欠如・多動症)」の傾向が強いお子さんとのこと。ご家庭でも心配されて、いろいろな機関と連携して見守っているとのことだった。

私は、特別支援教育や療育、医療の専門家ではないが、「ADHD」・「自閉症スペクトラム(注1)」・「LD(注2)」などの傾向を持つお子さんとは、よく出会う。他にも、知的な遅れや軽度の肢体不自由をはじめ、虐待・貧困・1人親家庭・家庭内言語が日本語ではない・重い障害のある親兄弟がいる・遠方から通っているなどなど、様々なハンデがあるお子さんとも出会う。

ここで考える。“普通”って何だろうな?

仮に、上に挙げたようなハンデがない子を“普通”とするならば、そんなお子さんはクラスに半分もいない。そして、私はこれをとても大事に思っているのだけど、“普通”だからって、別に困っていないわけではない。だから、医療的名称は、“普通”とはあまり関係がない。

ただ、支援する子とつき合っていく上での情報として、医療的名称を把握はする。「ADHDの傾向?なるほど。だから、どうしようか」というところから、私の支援は始まるからだ。逆に言えば、「ADHD」の傾向があるからといって、全員が困っているわけではない。

私には、ようたさんは“コップに水がギリギリまで入っている”というお子さんに見えた。

コップというのは、なんていうか、その人の容量やキャパシティみたいなもの。コップはみんなが持っていて、大きさも色々あって、それはその人の持って生まれたものや、あとからの体験などで大きくなっていく。問題はその使い方で、コップには入口と出口があって、それを調節するのが難しい。それから、コップにどれくらいのお水が入っているのが心地良いかを、自分で分かっているのも大事。

ようたさんは、「ADHD」の傾向ということで、刺激に反応しやすく、衝動性が高い特性を持つ。ということは、日々のたくさんの情報に振り回されやすい。たぶん、コップの入口はとても広い。でも、今のところ、内容を把握する・優先順位を付ける・要らないものは捨てるなど、情報を処理する力は小さい。となると、コップの出口は狭い。

そうしたら、どうなるかというと、コップはすぐに水でいっぱいになっちゃう。ギリギリまでたまって、苦しくなって、溢れそうになった時に、ようたさんは「拒否」の体勢になるんじゃないかなと思った。だとしたら、その時に、むやみやたらに話しかけても無駄だと思う。いたずらにコップの水を増やすだけだ。

じゃあ、どうしたら?学校で過ごすには、受け取ってもらわないと困る情報もある。そう思って、私はメモを書くことにした。彼のコップに隙間ができた時、すでに優先順位が付いていて要らないものは含まない、最低限の情報なら受け取って貰えるかも、と思ったから。ようたさんは、学習の遅れはほとんどないので、文字も読めるし、理解力もある。そして、ようたさんにとって、音、特に声の情報は要らないものが多分に含まれるようだ。例えば、怒りとか。

メモを受け取ってくれないこともあるけれど、受け取ってもらえることもある。毎回、ようたさんとのコミュニケーションのすり合わせである。すると、最近初めて、「先生、手伝って」と言われた。

毎回毎回、失敗と成功を繰り返して、少しずつ積み上げるのが信頼関係。そこに“普通”なんか、関係ないと思う。

注1)自閉症スペクトラム:人とのコミュニケーションが苦手・物事に強いこだわりがあるといった特徴をもつ

注2)LD:知的発達の遅れがないものの、「聞く」「話す」「読む」「書く」「計算・推論する」能力のうち、1つ以上の習得・活用に困難を示す

わんだーラボラトリー

「子どものすることには“ワケ”がある」執筆者の和田由紀子さん
「子どものすることには“ワケ”がある」執筆者の和田由紀子さん

文=和田由紀子さん
トネリライナーノーツ記事
https://tonerilinernotes.com/tag/yukki/

イラスト=堀井明日美さん