トネリライナーノーツ編集長であり、日暮里舎人ライナー「舎人駅」より徒歩6分にある寺院「全學寺」副住職である大島俊映が、地域の中にある物語を、その物語の主役たちに代わって描く連載が「和尚代筆」です。

其の十では、足立区千住にある創作中華料理店「NIHIRO」とリストランテ「MOTORA」のオーナーの米本哲弘さんの物語をお届けします。
(取材日:2025年11月26日)
中華料理店「NIHIRO」を生んだ料理人としての原点

――千住の創作中華料理店「NIHIRO」は、どんな経緯で始められたんですか?
米本さん 料理の専門学校を卒業して、銀座で中華料理の修行をしていたんですが、10年経ったことをキッカケに独立に踏み出しました。地元で独立したいう想いがあったので、千住にお店をオープンすることにしましたね。
――幼少期の頃から料理人になりたいと思っていたんですか?
米本さん 正直に言うと、サラリーマンになりたくなかったというのが強いかもしれないです。昔から、みんなの逆を行きたい性格なんですよね。
高校生のころはサッカーに熱中していたんですが、プロになるのは難しそうだったこともあり、サラリーマンになるなら“職人”になりたいと思いました。それで、“職人”というものを調べていたら、ちょうどテレビで『料理の鉄人』とか『ASAYAN』の「中華大戦争」などがやっていて、料理人はヒーローのようでおもしろいなと思ったのが最初です。

――その頃から、中華というのは決めていたんですか?
米本さん 中華だけ、調理実習にライスが出てくるんですよ(笑)洋食や和食は昼飯の足しにならないけど、中華なら腹いっぱいになるから。あと、中華鍋を振るのが男らしくてかっこいいなと思って中華料理を選びましたね。
――銀座での修行時代はどんな感じでしたか?
米本さん 修行時代はしんどかったですね。今と時代も全然違うので、料理人はどんなに悪い人でも働けるというようなイメージがあったんです。ようするに、刑務所から出た人が料理人になるとか、料理人は汚いとかというような、人として扱ってもらえないぐらいの環境下でずっと修行してました。

――そんな厳しい修行時代に、料理の技術などを身につけたんですか?
米本さん そうですね。やっぱり銀座のお店に勤めれたことが1番大きかったですね。良い食材に触れることができましたし、一流と呼ばれるシェフの杉田忠さんという料理長に出会えたことで、勉強ができたなと思います。
昔の中華料理人は、料理長になるとレシピは考えても、鍋をあまり振らないことが多かったんです。だけど、杉田シェフは毎日鍋を振っていて、そういう姿を身近で見れたことが財産になりましたね。
自ら鍋を振ってきた17年と、自分を取り戻すための1年

――満を持して、独立をしようと決めたきっかけは何かあったんですか?
米本さん 独立しないと自分の料理は作れないと思ったことと、独立しないと格好良くないと思ったんですよね。「料理漬けの人生なんだったら、もう思い切ってお店を開いちゃうか!」と。お店を開く以外の選択肢はなかったぐらいだった気がします。
正直に言って、格好良くなるために強引に始めたところと、「なるようになる」と思っていたら、独立できました。
――「NIHIRO」をオープンした当時は、どういう料理を作られてたんすか?
米本さん オープンして18年が経つんですが、自分が料理を作らなくなったのはここ1年くらいで、それまではずっと自ら鍋を振っていました。最初は、身近にある下町の中華といえば餃子かなということで、餃子を徹底的に研究することから入りました。今でも、1番注文が出るメニューです。

米本さん あと、料理はなるべく安価で提供できるように努力をしていました。食材にめちゃめちゃこだわるというよりは、スーパーでも買えるぐらいの食材を技術で美味しくするという。今となると良い食材も仕入れているんですけれど、あの頃はまず地域に馴染むことからスタートしましたね。
――この1年は料理をしなくなり引き継いだというのは、何か理由があるんですか?
米本さん 「NIHIRO」には決まったレシピがなくて、今は料理人の佐久間のレシピに任せているんですが、私が抜けることで彼の成長に繋がり、次の展開に向かえると思ったからです。そうやって、自分のレシピでチャレンジすることが、料理の楽しさだと思うんですよね。私が現場にいると、お客さんも私の料理を期待しちゃうところがあり、彼の料理ができないと判断して、抜けることにしたんです。
佐久間は面白いんですよ。人付き合いが特別上手いわけでもなく、華やかなタイプでもないんですけど、彼は料理に対する熱量が圧倒的で。情熱だけでなく研究心や探求心もしっかりあって、それらがお皿に乗っているように感じるところが私は好きなんですよね。

――ご自身で料理をしなくなった期間は、料理に対してどんなふうに感じていたんですか?
米本さん コロナ禍もありビジネス的にも大変な時期だったので、自分を取り戻す時間にしたいと思っていました。今まではアウトプットばかりしていたので、マラソンをしたり美術館に行ったりと、今までできなかったことをしてインプットしていましたね。
後輩との絆が生んだリストランテ「MOTORA」の誕生秘話

――話が前後するかもしれませんが、2号店の「MOTORA」はどういう経緯でオープンしたんですか?
米本さん 1号店の「NIHIRO」をオープンする際、店への想いや自身の経験を振り返っていると、料理人の周りは料理人しか集まらないことにつまらなさを感じたんです。居酒屋に行くといろんなジャンルの人が集まってくるじゃないですか。なので、1号店の「NIHIRO」のコンセプトは、“大人になってからの友だちづくり”にしました。
じゃあ次は、どうやったら“より仲良くなれるのか?”なんてことを考えながら2号店について考えた結果、2号店の「MOTORA」は、“すでに知り合ってる人同士の距離感を縮める店”をコンセプトにしたんです。例えば、記念日に一緒に過ごすみたいな。
――素敵ですね。

――「MOTORA」のシェフはどなたにお願いしたんですか?
米本さん 森本という同じ高校のサッカー部の後輩にお願いしました。始まりは、森本を引っ張ってきたというより、“ある出来事”があった流れで「一緒にお店をやろうか」という話になったんです。
――“ある出来事”とは?
米本さん 友人のお父さんが、癌で余命が1週間もあるか分からないという時に、その友人から「よねさん、うちの父親がイカ墨パスタを食べたいって言ってるんだけど、作れないかな?」という依頼をもらったんです。そのお父さんは、奥さんとの記念の料理がイカ墨パスタだったようで。「今から勉強したら作れるけど、知り合いにイタリアンをやっている奴がいるから1回聞いてみるわ」と返答して、森本にすぐに電話すると、森本は2つ返事で「俺が作ります」と言ってくれたんですよね。

米本さん 料理のコースって人生のようなところもあるので、「せっかく作るんだったら、お父さんの生まれや奥さんとの出会いをコースに見立てて、前菜から作ろう」という話になり、お皿を買いに行ったり、桜を200本ほど買ってきて暖房で咲かせたりしたんですよね。
その出来事を通して、森本とは波長が合うと感じて、料理の感覚も似ていたから、一緒に店を作ることになりましたね。
オープンを目指す3号店のキーワードは「昔ながらの下町らしさ」

――では、3店舗目のオープンを考えたキッカケはありますか?
米本さん 今回の3店舗目を始めるキッカケは“あっちゃん”こと「和食 板垣」オーナーの近藤温思さんが千住にビルを購入した時に、「ここでお店やらないですか?」と声をかけてもらったんです。「やった方がいいよ」というか、「やってほしい」と背中を押されました。
あっちゃんは、地域のことを本気で考えてるので、「この町をよくするために、例えば料理で何かできないかな」といった話を、一緒に飲みながらよく語り合ってきた仲なんです。だからこそ、自分も一緒に何かおもしろい発信をしたいと思いました。
――よねさんは、人との深い関わりから新しい物語が始まってるんですね。

――3店舗目をどういうお店にしたいという、何か構想はありますか。
米本さん 「昔ながらの下町らしさ」を反映した店にしていきたいなと思っています。あっちゃんとの出会いがあったり、銀行から借り入れができない事情があった時に大島さんがこの後に挑戦するクラウドファンディングの協力をしてくれたりと、周りの人たちが支えてくれる流れがうまれたことから、もう1度原点に立ち返りたいという気持ちが強くなったんです。
というのも、商店街は物を売買する場所ではあるけれど、本質的にはコミュニティで、人と人との気持ちのやり取りが昔は溢れていたはずなんですよね。物を買うと、気持ちをもらえていたような。
仕事になるとどうしてもお金が基準になるけれど、もっと気持ちでつながり、お互いに高め合う中で結果としてお金が生まれていく――そういうお店にしたいですね。そこに、自分は料理が特技としてあればいいかなと思います。

――「古き良き」というイメージですね。
米本さん 昔の下町暮らしって、“今を生きるしかない”のような、どこか寂しさや貧しさを伴ったイメージがあるかもしれませんが、時代が進んだ今だからこそ、あの頃にあった“あたたかさ”が、むしろ価値として強く求められていると感じるんです。
特に、手仕事はどんどん減ってきています。料理も工場で生産されたり、AIや機械が担う場面が増えてきたりしていますよね。それ自体は否定しないですが、やっぱり“手で包む”、“手で握る”のような人の手で、人の感覚で生み出されるあたたかさは、機械では作れないものだと思うんですよね。
もちろん、温度管理のような難しいところは機械に頼るのが良いと思うので、手仕事と機械のバランスをうまくとりながら、“あたたかいものは、あたたかいうちに”というところはブラさずにいたいです。

――3号店ではこんな料理を出そう、というイメージはあるんですか?
米本さん 市場で見た食材をその時のひらめきで料理にして提供したいですね。お客さんを見てということもありますが、例えば旬の大根を使うとすると、大根と豚肉はとても相性がいいのでそれらを鍋にいれて、そこにパイタンと鶏ガラを2対8ぐらいで混ぜて――生姜を少しと、発酵した鷹の爪を入れてみる。こういう風にして、どんどん浮かんだものを形にしていくタイプなんですよね。
――クリエイティブが爆発してますね。
「人が繋がる店づくり」飲食店の枠を超えるビジョン

――新店舗がスタートして数年後、こうなっていたらいいなという願望はありますか?
米本さん ここでコミュニティが生まれたり、人の感情が動いたり、歴史が生まれたりするといいなと思います。この場所で自分は料理を作っていきますが、せっかくなら“料理だけの場”では終わらせたくないと思っていて。
例えば、今日撮影してくれているカメラマンのかんなちゃんが来て写真教室を開いてくれたり、落語をやっている人が来て落語を教えてくれたりしてもいいし。お客さんに得意なことがあれば「これなら教えられますよ」と気軽に言ってもらえるといいですね。
小学生の料理教室もやりたいんですよ。そんなふうに、垣根のない“バリアフリーな場”になってみんなが楽しく感じてくれたら、すごくおもしろいと思うんですよね。

――色々なアイディアがありますね。
米本さん 本来は、技術提供ってお金がかかるものですけど、そういうことよりも、助け合いなどで技術の前に気持ちが行き交うような形があっても良いとも思うんです。それこそが、下町らしさだと思っています。
そういう空気ができてくると、自然と若い子たちも入ってきてくれるはずなんですよね。大人たちがおもしろい事をやってるのを見て「大人たち、楽しそう、かっこいいな」とか「自分も参加していいですか?」とかってなる。
そこから、料理をやりたい子が実際に作って提供するようになるかもしれないし、来てくれたお客さんの中に社長さんがいて「きみ、おもしろいから一緒に何かやろう」なんて機会が生まれるかもしれない。そうやって、何か生まれていく環境になればいいなと思います。

――これまで良い環境でお店をやってこられて、今度は良い環境をつくる側になるということですね。
米本さん これまでは「NIHIRO」を自分が考えて作ってきましたが、今度は足立区や千住そのものを“ひとつの会社”のように捉えて、みんなで育てていく感じにしたいんですよね。
自分は料理が得意だから提供しているだけで、これからはもっといろんな人が関わって、“みんなで場をつくっていく”ところに若い人たちが憧れる要素があると思うんです。なので、今回の3号店のコンセプトは、“繋がる”かもしれないです。
――なるほど。最後に、3号店の意気込みをお願いします。
米本さん 大袈裟なことは言えないですけど。みんなで作って、楽しみたいですね。
――とにかく楽しむですね。今日はありがとうございました。
NIHIRO
https://www.nihiro.jp/
MOTORA
https://www.motora.tokyo/

取材=大島俊映(トネリライナーノーツ 編集長)
トネリライナーノーツ記事
https://tonerilinernotes.com/tag/oshima/
撮影=かんな


