手織絨毯がつなぐ親子の物語(前編) 「大成コーポレーション」追分敏彰さん・脩司さん ―和尚代筆 其の壱― 

トネリライナーノーツ編集長であり、日暮里舎人ライナー「舎人駅」より徒歩6分の全學寺副住職である大島が、地域の中にある物語を、その物語の主役たちに代わって描く連載が「和尚代筆」です。
其の壱では、全學寺のすぐ近所の足立区古千谷で、手織絨毯のメンテナンスや販売を手がける「大成コーポレーション」社長の追分敏彰さんと、ご子息で営業部長の追分脩司さんの物語の前編をお届けします。
(取材日:2020年7月20日)

左が追分敏彰さん、右が追分脩司さん。 大成コーポレーションの前で
左が追分敏彰さん、右が追分脩司さん。 大成コーポレーションの前で

父親と仕事をするということ

追分さん親子の物語を綴る前に、取材者である私の仕事と父親との関係について伝えようと思う。

私が全學寺の副住職として寺院運営に関わり始めた頃、最も難しかったのは、仕事そのものではない。当時は、檀信徒情報の管理を電子化したり、行事案内などのお便りを出したりしていたが、それらの仕事は進めていればいつか終わる学校の宿題のようなものだった。学校の宿題は、分かりやすい。基本的には答えがあるし、期限も決まっている。裏を返すと、答えのない問いを解こうと延々考え続けることが、真に困難なのだ。

あの頃、私にとって最も難しかったのは、父親との関係だった。父親は全學寺の住職で、仕事においては上司とも言えた。お互いが声を荒げたのは、1度や2度ではすまなかった。特に、妻との婚約から結婚式までの1年間は、心のバランスが崩れて身体にも影響を及ぼすほどだった。仕事を一緒にしている父親との関係に、私は答えがほしかった。

妻と結婚してからは、妻や子どものおかげもあったり、私自身のコミュニティ活動が活発になったり、また、その他にも色々な要素が重なって、父親との関係は穏やかなものに変化していった。少なくとも、法要後の法話の導入で「住職が私の話を全く聞いてない」と軽口を叩けるぐらいには。

そんな背景があるから、コミュニティ活動の最初期にご縁をいただいた追分脩司さんから、大成コーポレーションの取材のお話をいただいた時、私が書きたいと思ったのは、仕事を通じた追分さん親子の物語だ。手織絨毯という希少な商材を取り扱う仕事の中で、父親の敏彰さんと息子の脩司さんが仕事にどのような想いを持ち、また、2人の関係がどのように変わっていったのか。同じ地域に根を張り、親子で仕事をするという共通点を持つ私だからこそ、2人の物語が読者に届けられるはずだと思っている。

追分敏彰さん、色彩のギャラリーでの取材
追分敏彰さん、色彩のギャラリーでの取材

大成コーポレーションの成り立ち

まずは、大成コーポレーションの成り立ちを綴っていこう。追分さん親子の物語を紐解くために、社長である敏彰さんがインテリアクリーニング業で起業するところまで遡る。

敏彰さんの父親は、現在の大成コーポレーションがある同じ場所で、材木屋を営んでいた。その仕事を手伝っていた敏彰さんは、自分の父親が手形取引で嫌な思いをするのを、何度か見てきたと言う。

自分の食い扶持を探そう、20代前半でそう思った敏彰さんは、赤帽と呼ばれる運送屋を始めて、仕事へのアンテナを張った。運送屋では、色々な業種の仕事を、中まで入って見る事ができる。そして、その時に引っかかったのが、インテリアクリーニングの業界だった。

近所の入谷にあるインテリアクリーニング店で3年間修業して、27歳で独立。西保木間に拠点を設けた。また、時を前後して、独立の前に、息子の脩司さんも生まれている。

敏彰さんが独立した当時、各家庭で一般的だった敷き込みカーペットには、湿気のせいでダニが発生しやすいという問題があり、それがテレビ放映されたことで、カーペットクリーニングの需要は多かった。町のクリーニング店や一般のお客さんから持ち込まれる仕事の依頼は、もちろん現金での仕事だ。仕事は軌道に乗り、売り上げも伸びて順調だった。

ペルシャ絨毯との出会い

敏彰さんが30代前半になると、日本はバブル突入の前夜。百貨店を中心に、富裕層向けの手織絨毯が日本にも輸入されるようになっていた。当初は、中国段通と呼ばれる重たくて厚い中国製の絨毯が主流だったが、間もなくイランからペルシャ絨毯が日本にも入ってくるようになった。

敏彰さんは、ペルシャ絨毯を避けて商売をした。ペルシャ絨毯はシルク製のものが多く、カーペットと同じようには洗えないからだ。

そんなある日、クリーニング屋から依頼された品物を、いつものように洗っていた。その品物が、避けていたペルシャ絨毯だと分かったのは、絨毯の色が滲んでからだ。敏彰さんは所有者であるお客さんのところに謝りに行ったが、こっぴどく叱られた。そして、その色が滲んだペルシャ絨毯を持って百貨店へ行ってみると、修理の術はなく、また、同じような絨毯が驚くほど高価で、ローンを組んで弁償するしかないことが分かった。ひどく落ち込む出来事だった。

しかし、後日、救いの電話が鳴る。百貨店のペルシャ絨毯の担当者からだった。ペルシャ絨毯の本国であるイランに送れば直せるかもしれない、とその担当者は言う。弁償するより安いと思った敏彰さんは、 お客さんに承諾を得た上で、絨毯をイランに送った。結果として、その色が滲んだ絨毯は、綺麗になって返ってきた。

そんな経験をして「さらにペルシャ絨毯を避けて歩こうと思った」と、敏彰さんは笑いながら昔を振り返った。

追分敏彰さん、ペルシャ絨毯と
追分敏彰さん、ペルシャ絨毯と

ペルシャ絨毯メンテナンスへの道

ペルシャ絨毯との出会いは苦いものだったが、仕事においてはカーペットクリーニングの需要は変わらなかった。一方で、次第に競合店が増えて、単価が安く数をこなすために体力を使う仕事に対して、敏彰さんは将来への不安を持ち始めていた。

転機が訪れたのは、敏彰さんが37歳の時。きっかけは、百貨店に入っている手織絨毯の仕入れ業者の役員からの連絡だった。その役員は、こう言った。ペルシャ絨毯のメンテナンスを勉強してみないか?

当時、日本にはペルシャ絨毯のメンテナンスを実施できる業者は皆無だった。そのため、絨毯を購入後のメンテナンスやアフターフォローの他、敏彰さんが経験したような絨毯洗いの事故が起きた時に、国内で対応できなかったのだ。

「食える道になるのか一か八かで怖い部分もあるけれど、日本で誰もしていない強みもある」と感じた敏彰さんは、ペルシャ絨毯のメンテナンスを勉強することを決意。その仕入れ業者を通じてビジネスビザを取得して、イランへ初めて飛んだ。世界情勢で言うと、中東で湾岸戦争が終わった頃のことである。

ペルシャ絨毯の国、イランへ

敏彰さんが向かったのは、イランのクムという都市だ。クムはイスラム教シーア派の宗教都市で、そこにペルシャ絨毯を洗う工場があった。イラン人はペルシャ語を話し、英語は一切通じない。異国の地で誰一人知り合いはおらず、現地の人とのコミュニケーションはジェスチャーのみ、当時は電話がなかったために日本との通信手段はなく、イランの食べ物も口に合わなかった。しかも、初日はトラブルが発生して、工場のごみ置き場での寝泊まりを余儀なくされた。

そんな過酷だった初めてのイラン滞在に負けず、会社での仕事と並行しながら、10日前後のイラン滞在を何度も重ねた。日本ではペルシャ絨毯のメンテナンスの仕事も受けるようになり、その都度で必要な知識をイランで得た。また、イランでのペルシャ絨毯のメンテナンスは分業で、洗いや修理などで工場が異なるため、それぞれの工場に赴き、それぞれの工程の技術を見よう見まねで習得していった。

ちなみに、この頃、息子の脩司さんは小学生。少年の脩司さんは、父親が頻繁に家を空ける理由を母親に尋ねながら「離婚したんじゃないか!?」と思ったこともあったそうだ。

ペルシャ絨毯メンテナンスのノウハウを積み上げていった大成コーポレーションは、インテリアクリーニング業界で同業者にも頼られるほどの技術力を得て、全国の百貨店の80パーセントから絨毯メンテナンスの仕事が来るようになった。この頃には、環境的にも設備的にもペルシャ絨毯が洗えない保木間の拠点を閉じて、敏彰さんの父親が材木屋を営んでいた現在の場所で、現在の仕事の礎を築いている。

後編はこちら

大成コーポレーション(色彩のギャラリー)
住所
東京都足立区古千谷本町1-10-28
ホームページ(大成コーポレーション)
https://jutan119.com/
ホームページ(色彩のギャラリー)
http://shikisainogallery.com/

「和尚代筆」取材者の大島俊映
「和尚代筆」取材者の大島俊映

文・撮影=大島俊映(「トネリライナーノーツ」編集長)
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