手織絨毯がつなぐ親子の物語(後編) 「大成コーポレーション」追分敏彰さん・脩司さん ―和尚代筆 其の弐― 

トネリライナーノーツ編集長であり、日暮里舎人ライナー「舎人駅」より徒歩6分の全學寺副住職である大島が、地域の中にある物語を、その物語の主役たちに代わって描く連載が「和尚代筆」です。
其の弐では、全學寺のすぐ近所の足立区古千谷で、手織絨毯のメンテナンスや販売を手がける「大成コーポレーション」社長の追分敏彰さんと、ご子息で営業部長の追分脩司さんの物語の後編をお届けします。
(取材日:2020年7月20日)

前編はこちら

左が追分敏彰さん、右が追分脩司さん。 色彩のギャラリーの前で
左が追分敏彰さん、右が追分脩司さん。 色彩のギャラリーの前で

3Kの仕事と怖いお父さん

父親の敏彰さんはイランで培ったペルシャ絨毯メンテナンスの技術力を武器に、インテリアクリーニング業界で確固たる地位を築いた。その一方、息子の脩司さんは自分の父親の仕事をどう思っていたのか。

脩司さんは「3Kだから、この仕事だけは絶対にやめておこうと思った」と述懐する。3Kとは、いわゆる「きつい・臭い・汚い」のこと。自身がアレルギー体質なこともあり、そのような環境に身を置くことに抵抗があった。

それに加えて、「お父さん、怖いし」とも。冗談めかして口にしたその言葉が、本音なのかそうでないのかは分からなかった。ただ、脩司さんは新卒で大成コーポレーションの取引先に就職したものの、その会社をすぐに辞めたことで、“怖いお父さん”である敏彰さんにひどく怒られたことがあったという。その頃の親子関係は、あまり良いものではなかった。その後、脩司さんは消防設備士という消防や警報や避難のための設備を設置・点検する仕事を長く続けることになる。

そんな親子の物語が大きく動き出すのは、2011年3月11日。東日本大震災がきっかけだ。

東日本大震災の発生

東日本大震災では、地震や津波による直接被害の他、福島第一原子力発電所におけるメルトダウン発生の大事故が起きた。これは今日も解決していないし、地震発生当時の混乱はパニックと形容して差し支えないだろう。ここに記すまでもなく、被災地は限りなく大きな打撃を受け、多くの人が亡くなった。

震災が発生した時、脩司さんはすでに結婚していて、妻の早香さんのお腹の中には夫妻にとって初めての赤ちゃんがいた。新しい家族を迎える準備をしながらも、震災の影響はやはり色濃く、脩司さんも家族も今後への漠然とした不安を抱えながら過ごしていた。一方で、防災に関わる消防設備士の仕事は多忙を極めた。脩司さんは仕事のせいで自分が家族の近くにいられないことに対して、これで本当に良いのかと自問自答する日々を送ることになる。

そんな苦しむ脩司さんを救ったのは、父親である敏彰さんからの誘いだった。

「うちの仕事を一緒にやらないか?」

追分脩司さん、絨毯の状態をチェック
追分脩司さん、絨毯の状態をチェック

父親と同じ道へ

敏彰さんは、消防設備士として働く息子がこのような状況でも休みを取れず、家族をないがしろにしてまで仕事をしなければいけないのを良くないことだと感じていた。脩司さんの方から一緒に仕事をしたいと言ってくるのを待っていたが、震災によって待ちきれなくなって誘ったのだという。また、仮に原発事故が最悪のシナリオを迎えたとしても、大成コーポレーションの技術力があれば、拠点をどこに移しても仕事を続けることができることも併せて伝えた。

脩司さんは父親の誘いに驚いたが、家族との時間が取れることや拠点を移しても仕事を続けられることに魅力を感じたのもあり、その誘いに乗った。消防設備士の仕事を整理して、早香さんの里帰り出産の立ち合いを経てから、正式に大成コーポレーションで働くことになった。

脩司さんが大成コーポレーションで働き始めた当時のことを二人に聞くと、父親の敏彰さんは「なるべく怒らないように気を付けた」と笑い、息子の脩司さんは「社長って大変なんだろうなと思った」としみじみと振り返った。

脩司さんは手織絨毯の仕上げや洗い、見積もりの作成など、仕事を徐々に覚えていった。特に、ペルシャ絨毯の取り扱いには細心の注意を払い、丁寧に作業にあたった。

色彩のギャラリーの誕生

脩司さんが大成コーポレーションに入社してから数年後、一通りの仕事を習得した脩司さんは、客先での見積もりをする新たなサービスを開始した。絨毯を所有するお客さんと直接話すことで、プロの視点でメンテナンスのアドバイスをしたり、リピートに繋がる受注を獲得したりできた。

大成コーポレーションの隣地が売りに出たのは、その頃のことだ。不動産屋経由で、その土地を買いませんかというオファーが敏彰さんの元に舞い込んだ。土地は90坪で、買うのならばもちろん大金が必要になる。家族でどうするかを話し合いながらも、脩司さんの客先での見積もりをするサービスのおかげで売り上げが上がっていたことや、お金の工面がつく見通しが立ったこともあり、その土地を買うことになった。

そこに建てたのが、親子の想いが込められた色彩のギャラリーだ。そこは、ペルシャ絨毯の販売の他、イベントのお客さんと交流したり、絨毯メンテナンスの見学に来た業者と話したりする場所として使われている。特に、インテリアクリーニング業界から絨毯メンテナンスの見学に来る人は多く、敏彰さん曰く「真似できるものなら、やってみろ」の精神で、イランで培ったメンテナンス技術は全てオープンにしている。

現在まで、日本人の同業者は出ていない。

追分脩司さん、ペルシャ絨毯と
追分脩司さん、ペルシャ絨毯と

手織絨毯がつなぐ親子の物語

私には脩司さんとの出来事で、忘れられないエピソードがある。平成31年2月に開催した東日本大震災の復興チャリティイベント「すきだっちゃ南三陸」が終わった直後、50人近く参加した打ち上げでのことだ。運営スタッフが順々に立って、すきだっちゃ南三陸や被災地への想いを発表していた時に、脩司さんの順番が来て号泣しながら話を始めたのだ。話の内容は、自分は当時震災に向き合えなかったけれど、今回のイベントで被災地と向き合う機会をもらえた、というものだったと記憶している。その場には、妻の早香さんも、お子さんたちもいた。

今回の取材を通して、あの時の脩司さんの涙の意味を少しは理解できたように思う。震災当時、脩司さんは色々な葛藤を抱えた末に、大成コーポレーションで働くことを決めたのだ。その決断の裏にある家族への想い、とりわけ、父親である敏彰さんへの想いを強く感じた。3Kの仕事をする“怖いお父さん”と思って敬遠していた、昔。ゼロから仕事の礎を築いた父親を尊敬する、今。父親と共に仕事を発展させようとする意欲を持つ、これから。

大成コーポレーションの物語は、もちろん続いていく。けれど、親子それぞれの手織絨毯への想いを綴って、この記事は終わろうと思う。

「手織絨毯はお金を稼ぐためのものであって、好きでも嫌いでもない。買うこともない。家族のために、自分が遊ぶために、仕事をしている。ただ、稼ぐためには、しっかりした知識を持って、1番にならないといけない。だから、イランに行って学んだ回数も、これまでに取り扱ってきたペルシャ絨毯の量も、誰にも負けない」と敏彰さん。

「手織絨毯は結構好きで、絨毯を通して世界中とつながっているような感じがする。絨毯があることで、家族の時間を作る事ができているから、本当に良い仕事をさせてもらっているなと思っている」と脩司さん。

読者のあなたにも、色彩のギャラリーを訪れて、手織絨毯がつなぐ親子の物語に触れてもらえたら嬉しく思う。

大成コーポレーション(色彩のギャラリー)
住所
東京都足立区古千谷本町1-10-28
ホームページ(大成コーポレーション)
https://jutan119.com/
ホームページ(色彩のギャラリー)
http://shikisainogallery.com/

「和尚代筆」取材者の大島俊映
「和尚代筆」取材者の大島俊映

文・撮影=大島俊映(「トネリライナーノーツ」編集長)
Instagram
https://www.instagram.com/oshima_toshiaki/
Twitter
https://twitter.com/oshima_toshiaki
note
https://note.com/oshima_toshiaki
トネリライナーノーツ記事
https://tonerilinernotes.com/tag/oshima/

Share this: