トネリライナーノーツ編集長であり、日暮里舎人ライナー「舎人駅」より徒歩6分にある寺院「全學寺」副住職である大島俊映が、地域の中にある物語を、その物語の主役たちに代わって描く連載が「和尚代筆」です。
其の七では、足立区江北にある印刷会社「安心堂」代表取締役の丸山有子さんの物語をお届けします。
(取材日:2023年7月4日)
編集長としての念願が叶う!
念願が叶って、私がファンと公言してきた丸山有子さんを取材できることになった。
丸山さんは、足立区が優れた製品・技術の区内産業を認定する「足立ブランド」において認定企業の第1号となった印刷会社「安心堂」の2代目社長。「安心堂」は、印刷の注文を受ける傍ら、小型パッド印刷機「なんでもくん」や沿線の駅名がデザインされた「沿線グラス」などユニークな商品を生み出してきた。
そんな印刷という“物づくり企業”を立ち上げた父親から丸山さんが事業を承継したのは、コロナ禍真っ只中の2020年春のことだ。
ちなみに、私が丸山さんのファンなのは、“エモい”から。彼女のエモーショナルな語り口で紡がれた、親子2代の冒険譚をここに記そう。
創業者である父の会社に入社
――丸山さんは、2014年にお父様が創業された印刷の会社「安心堂」に入社という形になったと思うんですけど、まずはその時の想いを聞かせてください。
丸山さん 2014年に入社したキッカケは、私の離婚なんですよね。その頃、私は仙台に住んでいて、2人の娘が中学2年生と小学5年生だったんです。仙台にいる時に離婚が成立して、この先の人生をどうしようかと思っている時に、父が「会社を継がないか」って声をかけてくれたので、足立区に戻ってきました。
それが入社した経緯なので、その時点では「安心堂を守るぞ」っていう想いは全くなくて、「とにかく、子どもたちを育てるために働かなきゃいけない。生涯続けられる仕事をしないといけない」と、背に腹は代えられない気持ちでした。
――当時、お父様に誘われた時は迷いましたか?
丸山さん やっぱり、一瞬迷いましたね。経営の勉強もしてきてないし、「果たして私にできるんだろうか」っていうのを一時期はすごい考えてしまって。でも、その話を父にしたら、「お前のその行動力があれば、大丈夫」と言ってくれたので、「じゃあ、とにかくやってみよう」と思いました。
――実際に入社された最初の頃って、どんなところで苦労されたりしましたか?
丸山さん 会社に入ったのはいいんですけど、「安心堂」は父の存在でもっているんだな、ということがすぐに分かりました。だから、継ぐための準備をしなきゃいけないっていうところで、「父がいなくなったらすぐに会社を潰してしまうぞ」って考えて、まずは自分の力でやっていけることをやろうと思って仕事をしていたんです。
けれど、「俺が活躍しないと。娘を守んなきゃいけない」という想いが父にあったのか、全然譲ろうとしてくれず。例えば、会社を改装して「試作工場」を作ることにした時も、その時は何も言わないけれど、後から色々と言ってきたりしました。変えられる、っていうことに不安もあったでしょうし、そこが1番ぶつかりましたね。
――僕もお寺の仕事であります、同じようなこと(笑)
丸山さん でも、父の言っていることだけをやっていたって、絶対に会社を守れないと思っていました。大きい声で怒鳴り合ったのは3回くらいあって、父に「お前になんて継がせねぇ!」って言われたり「これから俺が新しいやつを手塩にかけて育ててやる!」みたいに言われたりして、私も「そんなことができるんだったら、とっくにやっているよ!なんで私がここに帰ってきたと思っているのよ」って、そういう言い争いをしましたね(笑)
――実際に働かれてみて、最初にこの仕事にやりがいや、印刷っていいな、って思ったタイミングはありますか?
丸山さん やっぱり、「安心堂に出会えてよかった」とお客さまに言われた時は、本当にやっていて良かったと思いました。他社で印刷をやってもらえないと困った時に「安心堂」を見つけて来てくれて、私たちが希望通りの期間で、希望通りの印刷をしたことに、すごく喜んでくれて。
そういうケースは、技術的にすごく難しい印刷というよりかは、たった1個のために手をかける時が多いですね。例えば、アクリル製のトロフィーとか、1個ずつ形が違う陶器とか。それぞれに印刷の位置合わせをしなくちゃいけないものは、なかなか手間がかかるので、他社ではやらないんですよ。
「なんでもくん」で叶える“ラクで楽しい印刷”
――事業承継前に、丸山さんはお父様がやっていなかった仕事を色々やった、というようなことを別の取材記事で読んだんですけど、具体的にはどんな仕事をやられたんですか?
丸山さん まずは、「安心堂」の改装をして「試作工場」を作りました。その「試作工場」では、手軽に印刷ができる手動式小型パッド印刷機「なんでもくん」という印刷機を、個人のお客様に時間貸しする事業を始めたんです。
印刷の注文って対企業が多いので、やっぱりある程度のコストをいただかないと商売としてやっていけないんです。それだと、個人の方はお金が出せなくて諦めちゃう場合が多いので、なんとかできないのかなって。そこで、「だったら、自分で印刷してもらたらどうかな?」みたいな感じで、「なんでもくん」を貸し始めたのが1つ。
あとは、SNSの発信ですね。うちの父は営業を一切するタイプではないのに、どうやって仕事を取っているのかなって思ったら、紹介の他にネット検索やホームページへの問い合わせも結構来ていたので、「これはもっとこちらからPRしていけば、需要は見つかるんじゃないか」ということで、SNSでの発信を始めました。
――「安心堂」のオリジナル印刷機である「なんでもくん」の開発の裏側というか、お父様はなんでこれを作ろうと思ったんですかね?
丸山さん それで言うと、元々、父は印刷屋になろうと思って印刷屋になったわけではないんです。印刷屋になる前は証券会社に10年勤めて、そこでトップセールスマンになったから、「自分のやりたいことをやりたい。足立区生まれ足立区育ちで物づくりの環境に囲まれてきたから、手触り感のある仕事をやりたい」という想いで会社を辞めて、何かを始めようといった経緯の中で、印刷屋になったんですよ。
だから、最初は印刷の知識もなくて。父が創業した当時はシルクスクリーン印刷がメインだったんですけど、お客様の需要が変っていく中でパッド印刷に出会って、パッド印刷機を導入したんです。でも、その印刷機を使っていざ印刷をしようと思ったら、新しい機械だから使いこなすのがすごく難しかったらしくて。それは父だけじゃなくて、当時はその機械を買った人みんなが使いこなせない状況だったんですって。ただ、父は自分に印刷の知識がないからできないだけだと思っていたから、工夫してカスタムして、使いこなすようになったんです。
――そこから「なんでもくん」の開発に繋がるんですね。
丸山さん そうなんです。パッド印刷機も例にもれず、大型の機械ってセットアップも掃除も面倒なんですよ。そこで、構造的にもっと簡単に自分で印刷できるんじゃないか、ということで開発されたのが「なんでもくん」です。
私も実際に使ってみたら、ラクで楽しいし、これは便利だなと。世の中に、パッド印刷という名前すらまだ知られてないから、パッド印刷をもっと知ってもらわらないと「安心堂」の印刷の需要も増えないと思ったので、「なんでもくん」の販売も始めました。
コロナ禍の事業承継で気付いた印刷の価値
――お父様から事業を承継する際は、キッカケがあって承継したんですか?それとも、自然な流れで承継したんですか?
丸山さん 2020年の4月に事業承継するっていうのは、2019年になんとなく父と私の中で決まってたんです。父も高齢になってきて、体力的にも精神的にも弱ってきたっていうのが1番大きな理由かな。2019年の11月くらいには病気が見つかり、2020年の1月に手術をしたんですけど、年齢を重ねてきて父の気が弱くなってきたっていうんですかね。それで、「あとは任せる」っていう気持ちになってくれたんじゃないかと思います。
――事業を承継した時の気持ちはどうでしたか?
丸山さん 2020年4月に継ぐことが決まってるにも関わらず、コロナ禍の影響で2月に受注が全くなくなってしまったので、3月の段階で本当に継いでいいのかどうかを迷いました。もう先が見えない状態で、世の中全体がこの先どうなるか分からなくて全部が不安っていう状態の中、会社を継ぐのはどうしようかなと考えましたね。
――結果、事業承継してやっていこうと前を向けたタイミングはあったんですか?
丸山さん まずは、「やめたところでどうなる?」っていうのがあって。父と母を見捨てるわけにはいかないし、今不安になってるのは私だけではないと。みなさんがそれぞれ不安でも頑張っている中で、「ここで諦めてどうする」って思いましたね。
その時に、うちの印刷の価値ってなんだったんだろうって考えたんですよ。命を守るために必要なわけでもないし。でも、今までなんのために「安心堂」は印刷を続けてきたかを考えると、うちの印刷はその先に居る人の笑顔を生み出す仕事をしているんだな、と。誰かの生涯の宝物になる“物づくり”をしてるんだなって気づいたんですよね。
――当時、なにか覚えているエピソードはありますか?
丸山さん あの頃、飲食店さんも打撃を受けていて、そんな中でお酒を半年間だけ売っていいっていう許可が出されたんですよね。それで、お酒を販売をするためのボトルにロゴをいれてほしいっていう相談があったんですけど、半年しか許可がとれないから1日でも早く売りたいだろうと思って、デザインから電話で相談を受けて2日くらいで仕上げたんですよ。
そうしたら、すごい喜んでもらえて。うちができる技術ってこういうことなんだな。1つ1つ大事にやっていこう、目の前にあることを大事にやっていこう、って思いましたね。
――素敵なエピソードですね。入社した時と事業承継した時では、仕事や会社に対する向き合い方やスタンスが変ったと思うんですけど、どの部分が最も変ったと思いますか?
丸山さん どうにでもなるなっていう覚悟を持ったっていうんですかね。悪い意味ではなくて、腹を括ったというか。あとは、自分の意志や選択でいくらでも変わるな、っていうところですかね。
会社員として「安心堂」に勤めてる時って、父と母の存在があってのことだったので、そこの意思を確認しなきゃいけないのはある意味で楽ではあったんですよ。責任を負うのは、社長なので。
それに、父が病気で会社に来れなくなって意図せずに引退っていう形になってしまった中で、父親の凄さって居なくなった時に気付いていくんですよ。私は印刷によって育ててもらったんだな、っていうのはすごく感じたし、ここを守りたいって思って、この3年間でより強くなりましたね。
また地元で乾杯しようよ!「沿線グラス」ができるまで
――足立区で有名な「沿線グラス」についても教えてください。最初のキッカケはなんだったんですか?
丸山さん 「沿線グラス」と名前が付く前、埼玉県の草加にある「野菜とお酒のバル スバル」さんという飲食店が「オリジナルグラスを作りたい」との事で、間に入っていたデザイナーさんから「安心堂」で印刷できないかとご相談をいただいて。その時に、グラスにこの沿線のデザインが描かれていたんです。
「スバル」さんは、グラスをお店で売るというよりかは、お店で使うために作ったんですけど、たまたまそのグラスが欲しいというお客様がいて。そして、そのお客様がコロナ渦に、Facebookの「足立区いいね」という約2万人のグループに投稿したら、ものすごくバズったんです。私は「足立区いいね」を当時知らなかったんですけど、いろんな人から「あれって安心堂のグラスじゃない?すごいバズってるよ」って言われて、慌てて「足立区いいね」のグループに申請して、その投稿を見ました。
やっぱり、すごく嬉しかったんですよ!足立区って対外的には良いイメージがあまりないから、「足立区民って、足立区のことをどう思っているんだろう?」って思っていたんですけど、それを見た時に「みんな、足立区が大好きなんじゃん!」って思いました(笑)
――元々は、コロナ禍の前からグラス自体はあったんですね。
丸山さん 「スバル」さんに初めて作ったのが、コロナ禍の2~3年前です。それで「足立区いいね」でバズったのを知って、コロナ渦で飲食店が大打撃を受けてる中、これは良いなって思ったので、すぐに「スバル」さんに「今、足立区でこんなにグラスがバズっているから、作って売りませんか?」って言ったんです。すぐにそのグラスを60個くらい作って、「スバル」さんが持っていたネットショップに出したら、あっという間に売れちゃって。
なので、「今度は他の沿線を作って売りませんか?」とお声がけをしたんです。「スバル」さんの貢献になればいいなっていうのはもちろん、あの頃は世の中がギスギスしていて、マスクが足りないとか、買い貯めするとか、そういう状況を見てた中で、「またいつか、このグラスを持って地元のお店で乾杯しようよ!」と希望みたいなのを与えられるんじゃないかって思ったから。
ただ、「スバル」さんはグッズ屋さんじゃないし、グラスが売れて嬉しいけれど、グラスだけを買いにお店に来る人もいたらしくて。それは飲食店として正直あまり嬉しくないから、「もしやるんだったら、安心堂さんでやってください」ということで、2020年7月に「沿線グラス」という名前をつけて「安心堂」で始めました。
――「沿線グラス」のオンラインショップの名前が、「沿線グラスショップ」じゃなくて「つなぐつむぐ」ですよね。そこに対する想いはありますか?
丸山さん グラスを売りたいというよりか、「夢とか希望とかを忘れないでいようよ」という想いを伝えたくて。人と人の繋がりって本当に大事だよね、というところをすごく感じていたので、「地元を繋ぐコミュニケーショングッズ」をサブテーマに、人と人の繋がりを作れる物づくりをしたいなという想いから「つなぐつむぐ」という名前にしました。
1つ1つの繫がりを大切にする
――お話を聞いていて思うのは、丸山さんって周りの人とどう繋がるかを考えられていますよね。SNSの発信を見ていると、ご家族や従業員との関係が垣間見られるし、「足立ブランド」とかお客様とかとの繋がりなど様々な文脈があると思うんですけど、そこで意識していることはあるんですか?
丸山さん 正直、私には学歴も経歴も何もないんですよ、人に自慢できるものが。何か経営の勉強をしてきたわけでもないし。そんな中で私ができることって、人と人を繋げること。私という存在に対して好意を持ってたり応援してくれたりする人に対してできることってなんだろうって思った時に、「その人たちが役立つ、何かに繋げる」っていうことしかできないんですよ。
何かそこに特別な意識があるわけではなくて、私にはそれしかない。そう思って、Facebookの個人ページには、仕事やプライベートのことをオープンに載せています。そうすると、それがすごくみなさんに応援してもらうキッカケにもなっているな、って感じています。
――私も丸山さんのFacebookの投稿はチェックしています。
丸山さん 私は特別な存在ではなくて、日常にあるトラブルだったりとか、良いことだったりとか、そういったことをクローズアップをして載せてるだけなんですよ。ただ、そんな些細なことが、誰かの勇気になったり、「私も頑張ろう」って思ってもらうキッカケになったり、仕事においてこうやってやってみたらいいのかと思ってもらえたり。
そういうキッカケになるっていうのは、発信を長く続ける中で気付いてきたんですよね。だから、そこを大事にしたいと思っています。日常の中で感じたことや、乗り越えてきたことを発信することで、誰かの元気になったりするのかもなって。
――そういう「繋がりを大切にする」という考え方って、印刷の仕事に対するスタンスにも繋がるんですか?
丸山さん そうですね。「安心堂」を支えてきてくれたお客様たちの役に立つこと、印刷の機械1つ取ってもそのお客様たちの喜びや幸せに繋がっているんだ、そういう仕事をしているんだということを強く感じてきたんですよね。だから、1人1人のお客様だったり、1つ1つの物だったり、1つ1つの出来事を大事にしてやっていこうね、って今は従業員のみんなに声かけをしていますね。
親子2代で歩んだ印刷の道の続き
――丸山さんって、節目節目で大きい決断をされてる感じがするんですけど、その時ってご自身だけで考えているんですか?それとも、家族とか周囲の人とかに相談しながら考えをまとめていくんですか?
丸山さん 相談は誰にもしないですね。たぶん、自分の中に答えがあって、その確認をしたいだけに人に聞くっていうタイプなので。例えば、誰かに相談して、やめたほうがいいんじゃない?って言われても、自分はやめるわけがないなって思うんです。だったら、それでやめるくらいなら、最初からやらないだろうし。だから、あまり人には聞かずに、決断した結果を報告をしていますね。
――最後に、これから「安心堂」はどこを目指していくんですか?
丸山さん 父の代の起業理念は「人を喜ばせること」と掲げていて、私はそれを守りつつ、「ひとつひとつを丁寧に、ひとりひとりを大切に。印刷の技術でひとりひとりの人生の豊かさに貢献する」という新たな企業理念を掲げてやっています。「安心堂」に印刷のご注文をいただいたりとか、機械を購入して事業の役に立ちたいとかっていうお客様に対して、通りすがりの人ではなく、その人たちの人生の豊かさはどこにあるのかっていうのを考えながら、印刷の技術で貢献していこうと思っています。
結局はやっぱり、自分の存在が「誰かに・どこまで・何ができるか」を考えていくっていうことしかできないので。なかなか大変ですけどね(笑)
――余談ですが、2人の娘さんたちに家業を継いでほしいと思いますか?
丸山さん うーん、継いでほしいとは思ってない。いや、継いでくれたらいいなとは思いますけど。んー、でも、それは事業として残していくのは娘たちじゃなくてもいいかなとは思っています。
――迷いながらの言葉ですね。
丸山さん やっぱり、楽じゃないし(笑)上手くいく事もいかない事も色々ありますしね。
ただ、この「なんでもくん」を使ってくれてるお客様がすでにいるから、これを使ってくださってるお客様のためにも事業は継続していきたいなって思っているんですよね。印刷の受注がなくなったとしても別に替わりがきくけれど、「なんでもくん」はうちの完全オリジナルなので。
人生の中に仕事ってあるじゃないですか。だから、彼女たちが自分の意思で「安心堂」を継ぎたいって思ってくれてるんだったら、もちろん喜んでお願いするけど、こちらから「継いで!継いで!」っていうのはないかな。
安心堂
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取材=大島俊映(トネリライナーノーツ 編集長)
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編集補佐=しまいしほみ(トネリライナーノーツ アシスタント)
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撮影=山本陸
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